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まるこのおぼえがき

(旧)地球の反対側で愛をつぶやく

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「万引き家族」と「丹下左膳余話 百萬両の壺 」

YOUTUBEで、たまたま偶然「丹下左膳余話 百萬両の壺 」を観た。

1935年の白黒映画である。

百万両の壺をめぐってのコメディで、観だしたら面白くて最後まできっちり観てしまった。声を出して笑った映画なんてホント久しぶり。

人を虐めて笑いをとるような今時のコメディとは全然違って、昔はホントに上品だったなぁ、と。

目が行ったのが、舞台は江戸時代で、武士も出てくりゃゴミ屋も出てくるのですが、そのゴミ屋の住んでる貧乏長屋が、スッキリときれいなんです。雑然としているんだけど薄汚れていない。

で、またゲーム屋の姐さんのところに引き取られた孤児の男の子が、(丹下左膳はここに居候している)、メンコの勝負に勝って友達から小判だかを貰うのだが(この小判はその友達が自分の親のを勝手に持ってきたもの)、それを見とがめた姐さんは男の子に「返してらっしゃい」と叱る。その子が返しにいくところでひったくられ、それをその(小判をくれた)友達の親にとがめられ、丹下左膳はその金を作って返そうと、そこでまた笑いが…。

これを見て、「そうだよね。日本人の親なら普通そうするよね」と納得。なんでそんなところに目が行ったかと言うと、先頃フランスの何とか賞を貰ったという「万引き家族」。実際に観ておらず、ネット上の批判他を読むだけなのだが。それによると現代の底辺家族が、孤児を引き取って、その子に生活のための万引きを教える、という話らしい。で、舞台、というか住んでいる家の中が薄汚いらしい。

これ、日本人の感覚じゃないと思う。

以前「ヤマカシ」というフランス映画を観た。これは、米国の病院で臓器を移植しなければ命が助からないというお金のない母子家庭の子供を救うために、建物の外壁を渡り歩いたりできるヤマカシたちがその技術を生かして、金持ちマンションに侵入し金目のものを盗んでいく、という映画だった。最後は無事手術ができてハッピーエンドというもの。

フランスではそれなりにヒットしていたようだが、日本人としては(?)、観ていてとにかく気分が悪い。。。最後は腕組みをして唸っていた。病気の子供を救いたいのは分るが、それだったらまず働け、といいたくなるわけ。そんなすごい技術があるんだったら、盗みの他にもっと建設的なことができるだろう、と。金持ちは金持ちで高慢で気分が悪いが、だからといって盗みが正当化されはしないだろう、と。

こういう発想は、日本人にはないのでは?

「万引き家族」で子供に盗み方を教える? ジプシーじゃあるまいし。日本人だったら、上記の丹下左膳を観てもらいたい。貧乏でも品があって情があってこざっぱりしていて。

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2018/06/26 [06:01]

日本人の労働観

日本人にとって、働くことは、キリスト教的な苦役ではなく喜びであり、生きることそのものである。

最近の日本人は働かなくなった、との保守派の嘆きもよく耳にします。

言わんとするところは分かるのですが。

しかしちょっと待てといいたい。

そりゃあ、どの時代の日本人も身を粉にして働いてきたでしょう。

だけど、2時間かけて通勤し、夜中まで残業し … なんてことはなかったと思うのですが。

日の出とともに働き始めて…と言っても日が暮れれば家に帰り、夜なべの仕事は多々あれど、それは家族と一緒の家庭の仕事。

他人様のところで働いていても、基本歩いていける距離に仕事場はあったでしょうから、通勤で既にクタクタ、なんてなかったのでは?

現代日本は約70%がサラリーマンという、ある意味異常事態でして、父親が家庭から切り離された場所で、ほとんど人生の大半を会社のためにだけに、回りまわって自分の家族のためでもあるのですけど、働き続けなければならないというのはちょっとおかしい。

この状況で「もっと働け」と発破をかけられても。絶対昔の人より現代人の方が悲惨な気が。

人はある程度暇な時間がなければ考えることはできません。ぼ~としている時間はとても大切。無駄が一切ないような効率第一社会では人は生きていけません。

父親が子供が寝ているうちに家を出て、子供が既に寝ている時間に帰ってくるなんて歪んでいます。そういうのにNOと言う人が出てきたのでは。

「逝きし世の面影」という本に、江戸時代の、子供と一緒になって遊んでいる父親の絵や記録がありますが、そういう社会での「働くことは日本人にとっての喜び」であったわけです。



2018/06/11 [02:04]

日本の古代を矮小化することなかれ

平安神宮へ行った。映画などでは見ていたが実際に行ったのは初めて。あれは明治に復元されたもので、もと内裏で、古代のそれはもっとずっと大きかったそうで。

奈良の東大寺も本来はもっとずっと大きかったし、出雲大社もそう。宇治の平等院も現在残っているのもは当時のほんの一部。藤原京が、実は想像以上に大きかったことが最近分かってきたし。

もしかして古代日本って、ものすごいスケールだったのかも。何となく、歴史は「現代」が先端で、科学技術やら何やら、すべてにおいて一番優れているような感覚でいたのだが、本当は古代の方が凄かったのかも。当時一般人はまだ藁ぶき掘立小屋に住んでいたわけで、薬師寺を初め、あんな巨大な建築物、それも朱色の、がどんどん建立されていくのを目の当たりにしてきっと目を丸くしていたに違いない。

平城京跡へ行った。復元された朱雀門があるとこ。あれだって一部。遣唐使が乗っていったという当時の船が復元されて野外に展示されていた。当時の恰好をしたガイドのおじさんが説明してくれた。

船を見ながら、「彼らはこんなご飯を食べていて」と説明してくれていたが、「こういうご飯を食べられたのは、あそこ(船の、貴人が乗る部屋)に乗っていた貴族や僧侶だけで、漕ぎ手などはこういう食事(比較して大したことない粗末な食事)をしてたんですよ」と。私は一瞬「はぁ?」となり、「何が言いたいんだ?このおじさん」 …そこには私に「不平等で酷いですね」と言ってほしいようなニュアンスが。「ここに100人以上の人が乗ってて、ほとんどは漕ぎ手で…云々」。そして「最近分かったのですけど、遣唐使、最初は朝貢だったのですね」とも。私は「命がけの航海だったんですね」としか応じなかったが。まさかこの方たち、大勢来ている小学生たちにこういう説明をしているのだろうか?

屋内では、ビデオが流されていた。「国家のために…」と映像で説明されていた。で、私の後方に座っていたおばさん二人の声が耳に入る。「やっぱ国のためだったのね~」と。そこに何となく否定的なニュアンスを感じてしまうのは私のせいなのか?国のためで何が悪い。

当時、大陸には巨大帝国「隋」や「唐」が出来ており、日本としては、必死で対等にならなければならず、そのために天皇を中心とした中央集権国家建設が最優先課題であり…遣唐使に「朝貢」などという意識はなかっただろう。かの国を学ぶ、とともに、素晴らしい我が国を見せる、という誇り、矜持、自信 …日本をりっぱな国にしてみせる…胸にあったのはそういう篤き思いだっただろう。半島人の三跪九叩頭の礼じゃあるまいし。あのおじさんたち、彼らのおかげで今の私たちがあること知っているのかね?考えたこともないんだろう。

知れば知るほど、自分が日本人だからというのではなく、客観的に見て、この国は凄いと思う。スケールが大きすぎて、納まりきれない。源となる縄文時代、縄文人がまた凄いのだが。我が国の古代を、戦後の自虐史観頭で矮小化することなかれ。(自分の国の凄さを教えてもらえない我が国の子供たちは可哀想だ)



2018/06/08 [06:25]

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